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×雑記:子猫殺し騒動で考えたこと

今更ながら、「作家坂東眞砂小子猫殺しエッセイ騒動」についての自分なりの感想を。
ことの詳しい流れは、ニュー速Wikiのまとめ痛いニュースの記事を参考に。Wikiのまとめはかなり長いが、関連記事や文章、批判派擁護派それぞれの意見などがかなり詳細にまとめられているので、一読すれば騒動のほぼ全てがわかるようになっている。

まず、一連の騒動を簡単に要約すると、以下のようになる。

タヒチに住む作家が、自分の飼っている親猫が子どもを産むたびに、生まれたてのその子猫を崖の上から投げ捨てて殺していることを新聞の連載上で告白

ブログや2chで大きく話題となり、批判の嵐

それが全国紙などに取り上げられる

作者が週刊誌上で反論

非難がやまず、動物愛護団体やフランス政府が動き出す

作者が毎日新聞紙上でさらに反論 ←いまここ

流れとしてはいつものような「ブログ炎上」と似たプロセスと言えるだろうが、今回の騒動は“プロの作家”が“全国紙上”で告白したというところから、かなり大きな事態にまで発展してしまっている。
また、問題となっている部分が「きんもー☆」のような単純なことではなく、生命倫理に関わる深いものだったのも騒動の拡大に拍車をかけたようだ。

■坂東エッセイの矛盾

僕が考えるこのエッセイの問題点は、筆者が子猫を殺しまくっていることではない。
子猫を殺すことについての是非はあとで論じるとして、では、何が一体問題なのか?というと、それは、筆者の異常な価値観だ。

・1*n>x*n (x=1*k*l k=猫の平均出産仔数, l=猫の累積出産回数)という価値観

痛いニュースの記事中でも散々指摘されているが、母猫の避妊手術をしたくないがために生まれてきた子猫を殺す、というのは、どう考えても「生」に対する価値観が矛盾している。
筆者は他の文中で「避妊手術」を「本質的な生を奪う」ことと断じているが、子猫を殺すことは「本質的」どころか「生そのもの」を奪う行為だ。1匹の猫の本質的な生を奪うことをためらって、その代わりに多くの猫の生そのものを奪うことを選択する、というのはどう考えてもおかしい。

本当は、「生」云々というのは単なる建前で、本音では「避妊手術」というものに対して筆者が何かしら大きな抵抗感を抱いているだけではないのか。あるいは、筆者にとって母猫の存在は大切だが、子猫の存在はそれほど大事ではないので、殺すことによる良心の呵責が少ないから、そちらを選択しただけではないか。
そしてそれをごまかすためにペットブームがどうの、命の重さがどうの、という逃げ道を作っただけじゃないのか、と思えてしまう。

つまりは、簡単に言うとこういうことだ。
「子猫を殺すことを肯定するなら親猫の避妊手術も肯定しろ、
 親猫の避妊手術を否定するなら子猫を殺すことも否定しろ。」
これができないということは、不妊治療というものに対して筆者が何らかの特異な感情を抱いているか、もしくは母猫と子猫の命を等価に見ていないかのどちらかだ。
そして、そんな人間に生命がどうのという普遍的な問題を論じる資格はない。

繰り返しになるが、筆者の論理に従うと、猫を殺すことよりも避妊手術を受けさせることのほうが耐え難い行為である、と考えているように思えてならない。
生命の本質などと大層なことを説きながら、これでは論理が破綻していると言われても仕方がない。

・ペットに愛情を注ぐ人は人間に愛情を注げないという論理

子猫殺しに対する非難への反論として、週刊現代に掲載された記事に、こういう記述がある。

『その娘にとって犬猫は人形、人の代理なのだ。
動かない人形よりは命があるし、子犬子猫の間は噛みつかれる心配もない。
格好の人の代用となる。
普通に成長すれば、この子も同世代の友達と遊ぶようになり、人形や犬猫よりも、
人との交流がもっと楽しいことを発見していくだろう。
しかし、どこかの段階で人との交流に障害が生まれると、その愛情の注ぎ先はペットに留まったり、
ネット上でのバーチャルな相手に向かったりする。
昨今の日本人のペットに対する溺愛ぶりに、私は同種の病理を感じる。』
『人を愛したい、だけど難しい。
なにしろ人は言葉を話す、反論する、裏切る、棄てる。
でも、誰かを愛したい、愛されたい、だから犬猫に愛を注ぐ。
そんな人たちが結婚し、家庭を持つとどうなるか。
夫や妻を、ほんとうに愛せるだろうか。
さらには、生まれてきた子どもを、ものいわぬ犬猫としてではなく、一個の人間として愛せるだろうか。』


上記のように、筆者は「上手く人間を愛せない人」がもの言わぬペットに過剰に愛情を注ぐようになり、結果それが「人間世界の愛情の砂漠化」と「ペット世界の愛情の過剰化」を招いている、と断じている。
そして、砂漠化した不毛の心でも、心の中まではそうなりたくはない、という気持ちが「不妊手術」に対する拒否感を生んでいるのだ、と書いている。

『ネット上でのバーチャルな相手』とか色々と突っ込みどころはあるがそれは置いておいて、犬猫に愛を注ぐ人が全て「愛の不妊」であるという論理は、どうにも納得しかねる。ペット世界に愛が溢れると人間世界に愛が不足すると言われても、はいそうですかと理解することはできない。
昨今のペットブームは、単に日本が高度経済成長を終え、豊かな暮らしを多くの国民が享受できるようになった結果、ペットを飼う余裕を持つ世帯が増え、それがブームに結びついているのだと普通は思うのではないか。それがまさか、人間関係を上手く結べない人たちが増えて、その人たちがペットに逃げているのだなどとは考えもしないだろう。

うちの両親を例に出すと、僕の両親は今から9年ほど前、ちょうどペットブームが始まったあたりの頃に柴犬を飼い始めた。そしてそれ以来、メス犬ながら避妊手術もせず、一度の出産を経験させ、毎日散歩に行き、エサを与え、旅行にも連れて行き、十分な愛情を注いでいる。
が、別に人間に対して愛情を注がなくなったというわけではないし、教師という仕事柄人間と相対する機会は一般の人より遥かに多く、仕事仲間や遊び仲間もたくさんいる。

こういう例を身近に知っているだけに、「ペットへの愛情」と「人間への愛情」がトレードオフにあるという筆者の考えはあまりにも理解するのが難しい。ましてや、8年間も日本を離れタヒチで暮らしている筆者が、なぜ昨今の日本の社会情勢についてそれほど詳しく分析できるのか。

■猫殺し批判派が考えないこと

前段の冒頭の繰り返しになるが、このエッセイの問題点は別に「猫を日常的に殺していること」などではない。
猫を日常的に殺すことが問題なのならば、保健所の職員はガス室で日々大量の野良犬・野良猫を殺しているのだから、批判されなければならないことになる。

・殺すこと=悪という価値観

僕たちは「他の生命を奪うこと=悪」であると子どもの頃から教わって育ってきたが、なぜ生命は尊重されなければならないのか、ということに関して思いを巡らすことはあまりない。
そして、自分の知らない場所で、目に見えないところで多くの命が日々奪われていっていることに、それが社会的に肯定されていることに気づかずに、或いは目を伏せて過ごしている。
「なぜ蚊やゴキブリを殺すことはよくて、猫や犬を殺すことはダメなのか?」という問に、「蚊やゴキブリは人間にとって害になるが、犬猫は益になるから」という以外の答えを返せる人はそれほど多くはいないだろうし、その犬猫ですら野良という「人間にとっての害」になった瞬間にあっさりと殺されていく現状を、大抵の人はそれほど深くは考えていないだろう。

僕自身は猫を殺したいと思わないし、また殺したことも当然ないし、これからも殺すことはないだろう。でもそれは別に、猫の生命を尊重しているからじゃなく、殺す必要性がないから殺さないというだけだ。もしかしたら、生きていく上で耐え難いほど猫の存在が邪魔になったら(そんなことはありえないだろうが)、そして猫を殺すことが自分の社会的地位を脅かすことがないのであれば、殺すこともあるかもしれない(ただし、猫には「かわいさ」という最強の防具が備わっているので、その防御を打ち破って殺すことは並大抵の努力ではなし得ないだろうが)。

その考えは突き詰めれば、「人間以外の生物」がもつ「命の価値」などは0に等しいもので、あるのは「人間にとって益か害か」という尺度だけだ、ということなのだろう。
「命を大切にしよう」という得体の知れないスローガンでさえ、「(人間にとって都合のいい生物の)命を大切にしよう」という風に置き換えれば納得できる。そして、人間にとって人間以外の生物の命に価値なんかないということに、みんなうすうす感づきながらもあえて無視しているように思える。

子猫を殺すことを悪だとする「子猫殺し批判派」は、「殺してもいい命」と「殺してはいけない命」があることについてどう考えているのだろうか。あるいは、全ての命は尊重されるべきで、殺してもいい生物など存在しないと思っているのだろうか。
ただ闇雲に「猫は殺しちゃダメだろ」と批判している人は、今一度「なぜ猫は殺してはダメなのか」ということについて考えてみて欲しい。

■筆者本人の問題

最後に、人格攻撃みたいであまり好きではないが、筆者自身の問題についても触れておく。これは、筆者の書いたものを全て読んだ上で書いたわけではなく、あくまでもまとめWikiに載っているものを読んだ上での感想なので、実際のそれとは多少ズレているかもしれない。

・自分ばかりの世界

問題となった猫殺しのエッセイ、そしてそれへの批判に対する反論文、さらには過去に書いた自伝の一部分を読んでいて思ったことだが、坂東眞砂子という人の書く文章には、本人も『わたしは自分のために書いてきた。人に読んでもらうもの、という視点はなかった。』と認めている通り、「自分」しか出てこない。

『子猫を崖の下に投げ棄てるたびに頭の中が真っ白になり、恐怖と動転に襲われる』のも自分だし、『不妊手術のことを考えただけで、自己を不妊に、不毛の人生に落とし込む底なしの暗い陥穽を前にする気分になる』のも自分だ。そこに少なくとも「猫の気持ちを慮ろう」とか「猫が嫌がるから止めておこう」という意識は微塵も認められない。
子猫殺しも、母猫への避妊手術も、エッセイに対する反論も、それに対する反駁さえ、全てが筆者本人の中で自己完結してしまっている。

前述の「ペットに愛情を注ぐ人は人間関係が上手く結べない」という論理もそうだ。
恐らくこの人自身は、自分が人間関係を上手く結ぶことができないのをペットに逃げているという意識があるのだろう。それはいい。しかし、なぜか「自分がそうなんだから、自分以外のペット好きの人も同様に人間関係が上手く結べていないに違いない」と思い至り、結果「人間世界の愛の砂漠化」という意味のわからない結論に達する。そして最終的に「愛の不妊」という言葉を作り、「だから不妊治療はさせたくないのだ」と自己正当化している。
自分がそうだから、他の人もそうだ、という思考回路には、自分以外の考え方が出てこない。

別に、自分だけの世界に生きることは悪ではない。
筆者自身がそれを自覚し、タヒチという人間社会から大きく離れた場所に自分の居場所を求め、誰にも迷惑をかけずに一人で生きていくことは、むしろ褒められるべきことだ。
そしてその世界の中で自分の価値観を正当化し、親猫の不妊治療をせずに子猫を殺し続けることも、別に悪いことではない。

しかし、筆者が不幸だったのは、その独りよがりな考えを新聞という公共のスペースにぶちまけ、あまつさえ「猫を殺す」という社会通念上好ましくないとされている行為を、自分本位に基づく意味不明な論理や8年以上も離れている日本社会の「病理」を持ち出してまで正当化しようとしてしまったことだ。
それは、どちらの考えが正しいとか正しくないとかいうことではなく、どちらの主張が力を持っているかという単純な力比べでしかない。

■まとめ

長々と書いてしまったので、まとめくらいは簡潔に。

553 名前:ぞぬ[] 投稿日:2006/08/20(日) 06:14:06 ID:c3Cpy6K80 ?BRZ(1000)
ぶっちゃけ

「どうだ、私はお前たちがフタをして見えないようにしてごまかし続けてる原罪を
 真っ向から受け止めて、 しかし人間だから苦悩しながら日々を生きてるんだぞ。
 口だけ立派なこと言ってるやつは現実を見ろ!」

って言いたいだけのマイノリティだもの

(痛いニュースより)



×雑記:ゲーム市場の次のターム

ゲームは、10年周期で変化する ~E3の縮小と、DSの大ヒットが意味するもの
という日経ビジネスの記事が結構面白かったので感想を。

内容を要約すると、以下のようになる。

・ゲーム市場は10年おきに変革が訪れている
・00年代の半ばはその4度目にあたる
・90年代半ば、SFCの後期やPSの登場によって始まったゲームのタームは終わりを迎えようとしている
・それを象徴的に表しているのがE3の規模縮小とDSの大ヒット
・これからの10年でどのようなゲームが主流となるかはまだわからない

90年代半ばから始まったゲーム市場の流れとは、それまでの子供向けのシンプルで簡素なゲームから脱却し、グラフィックの華やかさや奥深いストーリー、複雑なゲームシステムなどを取り入れた、より幅広い年齢層へのアプローチを意識したゲームが増えたことを意味する。

言われて見ればその通りで、ゲーム市場はわかりやすいくらいに10年ごとに変革期を迎えている。
70年代半ばにゲームセンターやゲーム喫茶といった場所に設置されはじめたゲーム機は、80年代半ばに「家庭用ゲーム機」という新しい姿に生まれ変わり、90年代半ばには3Dグラフィックと大容量メディアという武器を獲得する。明らかにゲームが“変わった”と意識できるターニングポイントは、まさに10年置きに訪れているわけだ。
では、それからさらに10年が経った00年代の半ば、つまりは丁度今現在、ゲームはどう変わろうとしているのだろうか。

実は、DSのヒット作を見るとその回答の一端が見える。
DSのソフトで大きなヒットを上げている作品といえば、「おいでよ動物の森」、「ニンテンドッグス」、「脳トレ」、「マリオカートDS」だが、実はこれらのソフトは大きく2つに分類することができるのだ。
すなわち、「脳トレ」や「ニンテンドッグス」のような、生活に密着し現実世界になんらかの+αをもたらしてくれるゲームと、「おいでよ動物の森」や「マリオカートDS」のような、通信機能を備え他者との交流を行うことをウリとするゲームとにである。

まず前者について言うと、これらはこれまでのゲームとは全く違う、「ゲーム」と分類できるかもわからない新しいカテゴリーに属するもの。
“脳を鍛える”や“子犬と暮らす”と言ったキーワード自体は恐らく一過性のものであり、この先10年はおろか2、3年後ですら存在できるかどうか怪しいところだが、これらのゲームがヒットしたことの意義は、新しい年齢層をゲーム市場に取り込んだ、というこの一点にあると言える。
これは、丁度プレイステーションやセガサターンなどが、それまでゲームを子どもの玩具と見なしていた20代前後の青年層を新しい顧客として取り込むことに成功したことに似ている。
「新たな客層の開拓」はすなわち「市場の拡大」を意味し、それは「市場の変質」にも繋がる。これらのソフトのヒットは新しい10年の始まりを告げる意味を十分に持っていると言っていいだろう。

次に後者、「動物の森」や「マリオカートDS」のヒットについて言うと、これらがヒットした要因はいわずと知れた「通信機能」、言い換えるとオンライン性だ。そして、オンラインというキーワードこそが、恐らくこの10年を引っ張るゲームの新しい主流になっていくと僕は考えている。
もちろんオンラインゲームというカテゴリー自体はかなり前から存在していたし、PCの分野では相当発達して一つの市場を形成するに至っているが、コンシューマの分野ではインフラの整備が必要ということもあり、遅れていると言わざるをえない。
しかし、PS3やWii、Xbox360といったいわゆる次世代機にはこぞって通信機能が備え付けられ、ネットワークを通じて様々なサービスの提供を受けられるようになると言われている。
これは、明確に「オンライン性」こそが次世代ゲームのスタンダードになるということの証と言えるのではないだろうか。

そしてもう一つ、この記事の筆者が見落としている要素がある。
それは、ゲーム市場の「二極化」だ。

どんな市場にも言えることだが、新しく起こった市場ではまず様々なアイディアが試され、多くの製品が乱立する。そしてやがて良いものと悪いものの取捨選択がなされ、悪いものが淘汰されて良いものが残っていく。そののち、最後に訪れるのが二極化だ。
ゲーム市場における二極化とは、大規模な開発費を投じ、可能な限りクォリティーを高められたゲームと、開発費こそ低いものの、クリエイターの特異なアイディアを最大限に活かすことで質を高めたゲームに分かれることを意味している。

かつてのファミコンやスーパーファミコンの時代では、ゲームにかかる開発費はそれほど大きくはなかったため、様々な実験作が作られ、その中からクソゲーと呼ばれるものと名作と呼ばれるものが数多く生まれていった。
しかし、ハードがPSやPS2に移り、ゲームが2Dから3Dへと移行するにつれ、開発費はかさみ、結果意欲的な実験作は減り、確実に投資を回収できる見込みのある「ヒット作の続編」や「ヒット作のパクリ」が増えていくこととなる。結果、弱小ソフトハウスはなくなり、巨額の開発費を投入できる力を持った大手メーカーだけが生き残るという現状が生まれてしまったわけだ。
そしてこれからの次世代機戦争において、いよいよ本格的に二極化時代が訪れることになるだろう。

二極化の一翼、高級志向を担うのはもちろんPS3だろう。PS3ではそもそも億単位の開発費を投じないとまともなゲームが作れないという環境なので、必然的に高級志向ゲームしか生まれない。即ち、FFシリーズやMGSシリーズ、GTシリーズといった「凄いグラフィック」を持った「シリーズモノ」しか開発されにくい環境なわけだ。
逆に、二極化のもう一翼、アイディア志向を担うのは恐らくWiiになるだろう。任天堂もそれを重々承知しているらしく、Wiiにはクリエイターのアイディアを最大限活かせるよう、様々な機能が用意されているし、グラフィック性能はそれほど追求していない。ハードの値段もさることながら、ソフトの開発費も抑えられる傾向になるのではないだろうか。
よって、よく「次世代ゲーム機戦争に勝つのはPS3かWiiか」という話が語られることがあるが、二極化という観点から見れば、PS3もWiiもそれぞれ必要性があり、ある程度の需要は見込めるわけだ。もちろん、時代の流れや消費者のニーズにより、どちらかに優劣がつくことはあるだろうが。


以上より、今後10年のゲーム市場は、新しく開拓された高年齢層の客層、オンライン性、そしてゲームの二極化という3つのキーワードによってリードされていくことになる、と僕は予想する。
そして、それらのキーワードを現状で最もよく認識しているのは、SonyでもMSでもなく、任天堂であると断言する。なぜなら、DSやWiiの方向性が、明らかにそれらの条件を意識したものであるからだ。
今後Sonyが巻き返すにせよ任天堂が覇権を握るにせよ、大きな変革期を迎えつつあるゲーム市場は、ますます面白いものになっていきそうだ。

×雑記:亀田戦の感想

8月2日に行われた亀田興毅のライトフライ級の世界戦の結果が余りに面白いことになりすぎて、各所で話題騒然になっているので流行に乗って色々とまとめてみる。
情報の出自は以下。
亀田×ランダエダ まとめ
亀田興毅-Wikipedia
亀田興毅のまとめ-ニュー速用まとめWiki

・亀田興毅自身の性格について

亀田興毅の物怖じしない、というか礼儀知らずとも言える態度については、僕はそれほど嫌悪感を抱かない。恐らくは演出なのだろうし、昭和のヤンキーキャラで売るのもそれはそれでアリだと思う。あれにいちいちムカっと来ていたら吉本新喜劇は見ていられない。
ただ、多少演出下手な面はあると思う。いくらヤンキーキャラだとはいえ、ある程度敬語を使うべき場面というのは設定しておいたほうがいいだろうし、そのほうがより広い年齢層からの支持を得られるだろう。俗に言う、「普段不良ぶってる人がたまにいいことをするとなぜかすごくいい人のように思われる」現象というやつだ。長男の失敗を活かし、次男、三男ではさらに完璧なキャラクター作りに励んでもらいたい。

という皮肉は置いておいて、実際のところ、本人が世界タイトルを取ったときに流した涙はさすがに嘘ではないだろうし、頭は恐ろしく悪いかもしれないが、根はまともな子のように思える。しっかりと努力もしているし、19歳で世界を相手に戦うというのは並大抵の人間にできることではない。
やはり憎むべきは、亀田本人よりもそれを利用している周りの大人たちだろう。

・亀田興毅の戦歴について

数字だけ見ると12戦12勝10KOと華々しい。が、1戦目から6戦目までの対戦相手は(記録に残っている試合についていえば)一勝も挙げたことがないというどう見ても噛ませ犬ばかり。7戦目でようやく“勝ったことのある”選手を連れてくるが、それすら引退経験のある35歳のロートルというありさま。その後の試合でもローブローで勝利するなど、疑惑の残る勝利が多い。これじゃ「温室栽培」と言われても反論のしようがないだろう。

しかも、最終的には実際の階級であるフライ級からライトフライ級に階級を落とし、空位のチャンピオンをさらに階級が下の元ミニマム級の選手と争う、というのだから笑える。ここまでお膳立てを整えてもらいながらも苦戦した亀田は、やはり選手としてはまだまだなのだろう。
 
・世界戦での判定について

1R目でのダウン、11、12Rでの圧倒的な苦戦から、判定で亀田が勝利するのはどう考えてもおかしい、という人がほとんど。確かに僕もそう思うが、ラウンドごとのジャッジのポイントを見ていけば、結果にはある程度は納得できる部分もある。
なぜなら、確かに亀田は1、11、12Rでは情けないくらいに苦戦していたが、それ以外の中盤のラウンドでは十分対等に渡り合っていたため、そのうちのいくつかのラウンドを取っていてもおかしくはないからだ。ダウンを考慮したとしても、12ラウンドのうち7ラウンドを奪えば114対113の1ポイント差で勝利できるような採点システムのため、1、11、12Rを除く9ラウンドのうち7ラウンドを制していれば亀田の勝ちは十分にありうるというわけだ。

ここで大きな問題なのは、マストシステムという採点制度。この制度ではラウンドごとの採点で、例え両者のポイントが拮抗しているときでも、どちらかに優劣をつけて点数をつけることが「奨励」されている。あくまでも奨励であって強制ではないが、1つの試合で3ラウンド以上同点の採点を行うジャッジは三流扱いされる、という話も聞く。
この採点制度を用いると、例えば中盤5、6、7、8Rのようなかなり拮抗しつつもやや亀田優勢のラウンドと、終盤の11、12Rのような明らかにランダエダのほうが押しているラウンド、そのどちらにも同じ“1ポイント差”がつけられてしまう。最終的には同じ効力を持つ1ポイントだが、中盤のラウンドの1ポイントと終盤のラウンドの1ポイントでは実内容における差が全く違う。恐らくはそれが、見ている人の印象と実際の判定との差につながっているのだろう。

しかし、それを差し引いても大きな疑問の残る判定がある。それは、12Rにおける金光洙という韓国人審判のジャッジだ。彼は、明らかにランダエダが押していたように見える12R目の判定で、10-9で亀田有利のジャッジを下している。ちなみに他の二人のジャッジは9-10でランダエダ。
12Rがどんなラウンドだったかは実際に見てもらうのが早い。ちなみにその前の11Rは、金審判も含めて3人全員が9-10でランダエダというジャッジを下しているので、11Rと見比べてみて欲しい。[→YouTube-11ラウンド目12ラウンド目]
僕はボクシングの素人だから余り大きなことは言えないが、それでもどう見ても11Rがランダエダで12Rが亀田、という判定をする根拠がわからない。もしこの審判が他の審判と同様に、この12Rについてランダエダ有利の判定を下していた場合、最終的な判定は1-1(ドロー1)で引き分けになっていた。そして恐らくそれが最もあり得る結末だったはずだ。
もしこの世界戦で八百長のようなことがあったとするならば、この判定こそがその結果であると言えるだろう。

・TBSの体質について

すでにネット各所で言われていることだが、亀田の世界戦が8/2に行われた理由は亀田の後援会である「全国青少年健全育成会」(笑)の設立者であり、山口組の幹部である英五郎の誕生日が8/2だかららしい。つまりは、暴力団との資金関係が存在しているということだ。
格闘技、暴力団、放送局というと、つい最近フジテレビが暴力団との関係を理由にPRIDEの放送を打ち切ったことが記憶に新しい。フジは大晦日に特番を放送するほどのドル箱だったPRIDEを捨ててまで暴力団との関係を絶とうとしたが、TBSは絶とうとするどころか世界戦を幹部の誕生日祝いにしてまでご機嫌を伺おうとしている。これは、亀田興毅という仮初のスターを祭り上げる云々と比較にならないくらいの大問題だろう。
ちなみにTV放映ではリングすぐそばのS席で亀田戦を観戦する山口組幹部の方々がばっちりと写りこんでいる。

ていうか、もうそろそろTBSの放送免許剥奪しちゃえよ総務省。この前の安部官房長官に対する印象操作事件とか、靖国問題に関する確信犯的な誤訳事件とか、石原都知事の発言の捏造事件とか、いくらなんでもやりすぎだろう。TBSがなくなっても特に困ることはなさそうだから、永久にこの世から消え去って欲しい。


以上が僕個人の一連の「TBS亀田プロジェクト」に関する感想のまとめ。

×雑記:日本の法人税率は低い?

TVタックルを見ていたら、ヲタク森永共産党の人がしきりに「日本の法人税は低すぎる、大企業優遇政策だ」と言っていて気になったので色々と調べてみた。

まずおなじみのWikipediaでは、「日本の法人税」という項目にこう書かれていた。

日本の法人税は、財界・大企業の“自分たちだけは負担を減らしたい”という要求で税率を引き下げ過ぎた結果、国税分の法人税収が二十兆円から十兆円に半減し、国際比較でみても、企業の税と社会保険料の負担はヨーロッパ諸国の半分から八割と、世界で最も低い水準になっている。ちなみに、昨今大企業はバブル期を上回る史上最高の収益を上げている。

ふむふむ、中立を旨とするはずのWikipediaにはっきりと「引き下げ過ぎた」と書かれるくらいに(そして誰もそれを訂正しないくらいに)日本の法人税は引き下げられてきたのか。

次に、日本の法人税率の推移を見てみることにする。
調べてみたところ、平成11年度(1999年)までの法人税率の推移をグラフ化したものが見つかった。これを見ると確かに、平成以降の法人税率の引き下げられっぷりには目を見張るものがある。昭和62年(1986年)には43.3%だったものが、平成11年(1999年)には30%。実に40%近い引き下げ率だ。

同時に、法人税収の推移も見てみよう。文字が小さくて読みづらいが、確かに89年ごろをピークに法人税収は減少、かつて15兆円以上あった法人税収は2000年前後には10兆円前後にまで落ち込んでいる。

しかし89年といえばバブル絶頂期。そして税収が急激に落ち込んでいる91~92年はバブル崩壊の真っ只中。そう考えるとこの時期の税収の低下は法人税率とは何の関係もなさそうだ。
先ほどの法人税率の推移を見ると、法人税を37.5%に引き下げたのが1990年。この年の税収はまだ高い水準にある。
その後1998年まで税率は変わらず、98年に34.5%、99年に30%に一気に引き下げ。98年の税収は前年より2.2兆円少なく、99年の税収は前年より0.6兆円少ない。これらの税収の落ち込みは税率の引き下げに起因していると見て間違いないだろう。

TVタックルでは、自民党の人が引き下げの理由を「国際競争力をつけるため」とか「法人税率を上げると企業が国外に逃げてしまう」と説明していた。
ということは、現在の日本の法人税率よりも、海外の法人税率のほうが低いのだろうか。日本の法人税率は国際的に見てどれくらいの高さなのだろう。
調べてみると、「郵政民営化っていいことなの?」というpdf(リンク先はhtml)の中にこんな一文があった。

◆各国の法人税率〔カッコ内は地方税〕
日-27.37%〔13.5〕
米-31.91%〔8.84〕
英-30.10%
独-32.94%〔15.61〕
仏-36.67%
国際的に見ても、日本の法人税率は低い。

なるほど、数字が30%ではなく27.37%なのはなぜなのかよくわからないが、確かにこの先進5カ国の中では日本の法人税率は一番低い。
ここで気になったのが〔カッコ内は地方税〕という注意書き。数字を見ると、日本、アメリカ、ドイツにはカッコがそれぞれついている。ここでいう地方税とは一体なんなのか?

と思ってさらに調べてみたら、面白いデータが見つかった。法人実効税率の国際比較(pdf)というものだ。
これによると、法人に対して課されている税が、法人税だけの国と、法人税と地方税との両方の国とがあるようだ。そして日本やアメリカ(の一部)、ドイツは後者のようである。
さらに興味深いことに、法人税+地方税で比較すると、日本の法人に対して課されている税率は、先進各国や発展途上国と比較しても相当高い水準にある、ということになっている。

さらにこのpdfによると、法人税率の引き下げというのは世界的な潮流であるように見える。
図表2-2を見ると、EU加盟国やOECD加盟国の法人税率の平均はあきらかに1990年代の後半から2000年にかけて下がっている。
つまり、日本での法人税率の引き下げもこの流れに乗ったものであり、国際的な視点で言うならばごくごく普通のことのようだ。

さて、以上の事柄を踏まえた上で、今日の結論。

Q.日本の法人税率は国際的に見て低い?
A.法人税だけなら低い。ただし地方税も合わせた実質的な税率で見ると世界で最も高い国の一つ。

Q.日本の法人税率は年々下がってきている?
A.98年、99年に急激に引き下げられた。ただし、世界的に見ても90年代後半から法人税率は引き下げられる傾向にある。

Q.法人税率を上げたほうがいい?
A.法人税率を上げると一時的にせよ税収は増える。しかし、ただでさえ法人に課される税率が高い日本で、しかも世界的には法人税を引き下げる流れの中で法人税率を上げるという行為は、国内企業の日本離れを引き起こす可能性がある。

Q.森永や共産党の人の言ってることは結局正しい?
A.ウソは言ってない。でも都合の悪いことも言ってない。

テレビを見るときは内容の真偽に注意しましょう。

×雑記:“人狼”は人間の攻撃性を刺激するか

最近仲間内で流行っている人狼というゲームについて、面白い記事を見つけたので感想を。
その記事とは、【レポート】高学歴ホワイトカラーがハマる「殺人ゲーム」というタイトルで、中国の都市部において高学歴のいわゆるエリート階層の間で流行している「殺人ゲーム」について書かれたもの。文中に「殺人ゲーム」のルールなどに関する詳しい説明はされていないものの、

初期段階のゲームでは主役がマフィアと村人だったが、次第に、これが殺し屋と庶民になってきたという。

殺し屋として最大限自分の身分を隠し、絶え間なく嘘をつき、或いは相手の嘘を見破ったりしながら、表情や身振りを変えつつ演技し、あらゆる手段を講じて脅威となる人を取り除こうとする。最終的な目的は、自分以外のすべての人の殺戮。

このゲームに欠かせない道具は「仮面」だ。一旦これを被ると、「真夜中に起きたことのすべて」が隠されてしまい、推理するしかなくなってしまう。

などの表現から、人狼に近いルールのものであることは推測できる。
恐らくは、数人の村人の中に紛れ込んだ殺し屋を探し出すゲームなのだろう。

記事内では結びの文章として『名前そのものは恐ろしく響くが、そのゲームルールには論理的な分析や、コミュニケーション能力といったものを育む側面など、ある程度積極的な意義もあり、心理ゲームのカテゴリーに属する。』とまとめながらも、『その血まみれのゲームコンテンツが、暴力に向かう気分を刺激し、好戦的な風潮を煽る危険性を無視できない。』と、ゲームのルール自体が人間の攻撃性を高める危険性を持っていることを示唆し、『長期にわたり、このような雰囲気の環境に置かれていれば、利より害の方が大きいといえるだろう。』と全体的には否定的に見ているようだ。

「殺人ゲーム」が「人狼」と同様のものであると仮定した上で考えてみると、確かに「人狼」はある意味で“騙し”と“疑い”のゲームであるし、人狼側は生き残るためにあらゆる嘘をつき、村人側は自分以外の全ての参加者を疑うように義務付けられていると言える。そのルールは特定の参加者に「正直者」であることを否定させ、隣人を信じることを拒絶させる。

しかし、このゲームの本質はプレイしてみないことにはわからないだろう。なぜなら、このゲームは村人側になるか、人狼側になるかによってその様相をガラリと変えるからだ。
人狼側になった者は、確かに記事で言われている通り、如何に他人を騙し、上手く嘘をつき、他の者を陥れ、処刑から逃れるかという、実社会ではおおよそ美徳とされない行為を行わねば生き残れない。夜の間に自分にとって邪魔になりそうな参加者を殺し、或いはそれすらも自分から疑いを逸らすための武器とし、自分以外は全て敵、というある意味究極の悪人気分を味わうことができる。
だが村人側となった場合は(高い確率で参加者は村人になる)、その立場は一転する。
村人は言わば「名探偵」だ。
やるべきことは「身の潔白の証明」、「議論の誘導」、「行動の提案」、そして「説得」と「推理」。これらは実社会でも十分に是とされる行動であり、むしろ上の立場にある者にとっては必須技能とも言える。人狼になる確率より村人になる確率のほうが高いことを考えると、このゲームのメインはむしろこちら側であると言っていいだろう。
従って、あくまでも村人側の立場に立ってプレイする上では、人狼やそれに近い殺人ゲームは攻撃性というものとはほど遠いゲームであると断言できる。そもそも、このゲームにおける「死」とは単なる「ゲームオーバー」の代替記号であり、現実世界のそれとは重みが全く違う。

記事を書いた人は恐らく、「殺人ゲーム」について聞きかじっただけで、実際に何度かプレイしてみて記事にしたわけじゃないんだと思う。中国で行われているゲームがどのようなものであるかは想像するしかないが、もし人狼の亜種であるのなら、そこにあるべきは「謀略」ではなく「推理」であり、「欺瞞」ではなく「論理」のはずだ。そもそもあからさまな「嘘」がまかり通るほどこのゲームは簡単ではない。
何よりおかしいのは『都市部での普及とブームが、人々の殺人行為に対する罪悪感を希薄化する恐れすらある。』という一文だ。これでは「TVゲームで人を殺すことが普通になったせいで少年犯罪が凶悪化した」と嘯くどこかのエセ研究者と同レベルじゃないか。

ただ、いくつか記事に同意できる部分もある。
プレイしていて感じたことだが、このゲームは実際に参加者同士が顔をつき合わせてやるべきゲームではないように思う。
僕が仲間内でやる場合はお互いにそのゲームだけの使いきりの名前や性格などを設定し、誰が誰を演じているのかわからないような状態で行っている(いわゆるロールプレイ)。
この状態であれば、少なくともプレイ中は例えば自分を糾弾している参加者の向こう側に、実際のその人の顔を思い浮かべることはないし、ロールプレイだと割り切ってしまえばあとくされもない。
ただ、顔を晒し、自分の性格そのままにこのゲームに参加してしまうと、少しずつ鬱積や不満が溜まり、人間関係の軋轢を生み、それがそのうち爆発してしまうような人も出てくるんじゃないかと思う。そして、そのとき目の前に相手がいたら手を出してしまう人もいるかもしれない。
もちろん、普通の人間であれば全ての言動はゲーム内でのことと割り切り、後々に遺恨を残すようなことはありえないのだが、中には精神が未熟で「ゲームであいつに疑われたせいで殺された」と逆恨みする者も出てこないとも言い切れない。不特定多数が集まる“カフェ”のような場所ならなおさらだ。
そういう意味では、直接的に攻撃性を助長するとは言わないまでも、間接的に参加者の潜在的な暴力性を誘発する危険性はあるかもしれない。そして、そのような暴力沙汰を出さないようにするためにも、こういう“カフェ”ではなく、オンライン上でプレイするのがこのゲームの一番正しいやり方なんじゃないかと思う。

また、短時間でのプレイになると、どうしても理論誘導よりも印象操作によって簡単に他人を陥れやすくなる。よって、より理論的にこのゲームを楽しみたいのであれば、人狼BBSのような1プレイに数日かけるようなものが一番いいだろう。少しとっつきにくいのが難点だけど、ログなどを読んでみるとかなり楽しそうでもある。
この記事を書いた記者には、こういうものの存在も知って欲しいものだ。