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×雑記:尼崎電車脱線事故に思うこと

閑。さんのところのこの記事を読んで、今回の事故後のマスコミ各社の報道を見て感じていた違和感がようやくはっきりとした。
なんとなくは考えていたのだけど、記事中の小寺弁護士の発言を初めて知って(インタビュー自体は見たのだけど)、頭の中でそれなりにまとまったと思うので、ここらで文章に起こしてみることにする。
事故直後からの報道を順を追って見てみると、おおまかに言って
事故内容報道⇒遺族の悲しみ⇒原因を追究⇒JR西日本を非難
という風になると思うが、僕が特に強い違和感を感じていたのは
その中でも特に2番目と4番目についてだ。

「親しい人を亡くして悲嘆に暮れる遺族の姿」を、まるでステレオタイプを求めるかのように次々と画面に映し出すテレビメディア。
時には病院に詰め掛け、周囲に迷惑をかけながら、しかし善人面をして「ご冥福をお祈りします」と繰り返す姿は、なんとも安っぽい三文芝居を見ているかのようだった。
ステレオタイプな遺族の姿。これは手紙を残して旅行の途中で事故に遭った女子大生のエピソードが一番よくあらわしている。
確かに、家族や恋人などを亡くした人の悲しみは量りきれないものがあるだろう。しかし、それを大げさに誇張してまるで同情を煽るかのような報道の仕方は、ジャーナリズムと呼べるものだとは僕は思わない。女子大生の残した手紙は格好の材料としてマスコミに取り上げられ、耳を覆いたくなるほど何度も何度もテレビ上で読み上げられることとなった。
マスコミが陳腐な正義感を持って、記者会見上の席でJR西日本の代表者を糾弾したり、汚い言葉で(僕も関西弁地区の人間だから耳が痛いのだが)野次ったりする姿にも同様に激しい嫌悪感を覚える。
マスコミのナルチシズム的な正義感は先だってのライブドア・フジ騒動でも感じていたことだった。ネットジャーナリズムを頑なに否定し、自分たちだけが報道の申し子で、正しいことをしているのだという姿勢が、局を問わずどのニュース番組でも見られた(特に顕著だったのがNEWS23の筑紫キャスター)。ジャーナリズムをまるで悪を糾弾する正義の矛とでも思っているようで、安易な善悪の定義づけによってメディアが暴走した数々の過去をまるで省みる事もない。
ジャーナリズムは必ず正義で、まるで自分たちが真実の代弁者だとでも言いたげな姿勢はもうずっと昔から変わっていないのだろうか。

今現在は4番目のJR西日本の非難から、少しずつ原因究明の方向へ戻りつつある段階にあるように思う。RSSのニュース配信などを見ていると顕著なのだが、事故後1週間から2週間くらいの間、オーバーランや扉の開け忘れといった、事故以前からある程度起こっていた(そしておそらく事故後も大して発生率は変わっていない)事故とも呼べないような小さなミスを、いちいちニュースとして各新聞社がこぞって報じていた。
さらにご存知のとおり、JR西日本の社員による事故後の宴会や旅行、ゴルフ大会などの問題も次々と報じられるようになった。

前者はもう何も言う事がないくらいマスコミの悪い体質がそのまま出ているような事例だ。マスコミは一方的にニュースを与える立場上、ニュースの取捨選択をしっかりと考える必要がある。このときよく使われる方便が「国民が知りたいニュースを」だ。だが実際本当に国民の知りたいニュース、ためになるニュースをマスコミがきちんと報じているかと言えばそれはノーと言わざるをえないだろう。それは創価のこともそうだし、人権擁護法案のこともそうだ。他にも報じられていないが国民に重大な影響を与える事柄はたくさんある。結局マスコミは民間企業という体質上、本当に国民の立場に立った報道なんてできるはずがないのだ。それを「国民が知りたいニュースを」という方便でごまかす。
「国民が知りたい」と思う前提として、ある程度そのニュースが事前に報じられているという必要がある。全く報じられていない事柄について、知りたいと思う人はごくごく一部の人間のみだ。まずマスコミによって一方的に情報散布が行われ、それに一般の人が反応する。つまり、「知りたい」という反応さえマスコミによって操作されうるものということだ。結果マスコミはそれを利用して、自分たちの都合のいいニュースを散布し続ける。
「国民のため」というお題目を利用して利益を追及する。これは今回の事故でJR西日本が散々言われてきたことではなかったか。

そして事故後しばらくして発覚した、JR西日本の社員の不祥事(と呼べるかどうかもわからないが)。はっきり言って、「JR西日本の社員が事故後韓国に旅行してました」とか報じられても、正直「ハァ?」としか思えない。事故に直接関わった(例えば事故車に乗りながら救助活動に参加しなかった)社員ならまだしも、JR西日本の社員全員に痛烈な反省を求めるなんてそんなどこぞの韓国のような感覚は、通常の人間なら持ち合わせていない。JRの社員が旅行を取りやめたところで、自体は何一ついい方向に進むわけではない。
もちろん、事故の第一報を受けながらゴルフコンペを続けた一部の社員はそれなりに(危機管理意識として)問題があったかもしれないが、JR西日本の全社員に事故の反省を求めたって、何の意味もないし、何の必要性もない。

この事故後のJR西日本に関する一連のネガティブな報道を通して感じるのは、マスコミが今回の事件の悪役をJR西日本にしたがっているということだ。もちろん、今回の事故の原因が厳しい日勤教育や30代の運転手が19人しかいないという人事のまずさ、過労ギリギリの勤務シフト、詰め込みすぎのダイヤなどにあったことは間違いない。最新式のATSが設置されていたなら防げたということもあるかもしれない。
だがこの事件の本質はそんな上っ面の部分だけではないはずだ。
そのなんとも言えなかったもやもやとした部分に、最初に書いた記事の小寺弁護士の言葉がぴったりと収まった。
確かに「JR西日本が全て悪い!JR西日本は反省して賠償して改善しろ!」ということにすれば、責任の追及も事故の理解もとても簡単にいく。マスコミも報じやすいし、一般の人も「あぁ、JRが悪いんだな」とそれだけで終わってしまう。
だけど、本当にそれでいいのだろうか?
日本に企業が数ある中で、本当にJR西日本だけが、福知山線の乗務員だけが、ゆるんでいただけなのだろうか?普段から、正確で乗り遅れてもすぐ次があるダイヤの恩恵を受けながら、その裏にどんな軋轢が潜んでいるのかも考えず、いざ事が起こればああすればよかった、こうすればよかったと非難する。
そのマスコミや一部の人たちの姿勢に、僕はどうしても違和感を禁じえないのだ。

追記:
今回の事件は少し命の価値について考える機会にもなった。
最終的に思い至ったのは中学生、もしかしたら小学生の高学年の頃からなんら変わりなく、結局「神の前では命は等価だが、自分の前では不等価である」というところだった。だからこそなおさら強く、マスコミの遺族や被害者報道に嫌悪感を覚えるのかもしれない。
「こうしている間にも世界中で子供が飢餓で死んでいるのに」と。

まとまりのない文章になってしまったが、たまにはこういうのもいいかもしれないと思いつつ、今日はこの辺で筆を置くことにする。
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コメント


家族を亡くしたものは黙っていろということですか?何も表現するなと。

by: k * 2005.07.06 20:32 * URL [編集]


>kさん
長文を読んでいただいてありがとうございます。

僕は遺族を非難するようなことは一言も書いていません。親しいものが亡くなった時の悲しみは計り知れないものだろうし、それを表現するのは当然のことです。
ただ、それをマスコミが過剰に取り上げ、それを理由として感情的にJR西日本を非難することには何の意味もないし、すべきではないと考えています。
重要なのは悲劇的な事件が起こった原因をはっきりと特定し、二度と起こることのないように対策を施すこと、そしてその上で責任を取るべき者を追求することです。

by: Neo * 2005.07.07 16:48 * URL [編集]


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