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×雑記:Mixi論

京大生の就職活動 - mixiなどのSNSについて…
mixiに気をつけろ!
mixi によって発生する承認疾患の病理
何故認められなければならないか
【辞めるの?】正直、mixi疲れたスレ8【続くの?】

各所でMixiに関する記事が多く書かれているようなので、便乗してちょっと駄文を一つ。かなり長文なので注意。また、人によってはすごい不快感を催すような文章なので、Mixiにハマってる人にはあまり読まないでもらいたい。

僕は昨年の10月に友人に招待を受けて(というかこっちから頼むような形で)Mixiを始め、それから4ヵ月半ほど適当な日記の更新を続けているが、コミュニティなどで積極的に動いているというわけではなく、マイミク(友人)登録もたったの2名という状態だ。
というのも、もともと僕がMixiに参加したいと思った理由が「友達を増やしたい」とか「同じ趣味を持つ人と交流したい」といった“本来の”Mixiの目的からは大きく外れたものであるためで、さらに言えばそもそもMixi内のみで完結してしまうような交流に違和感を覚えているからなのだ。

その違和感には、Mixiを始める前に某所で読んだ「Mixiは大人のポケモンだ」という言葉がぴったり当てはまる。それはすなわち、Mixiというのは、いかに自分が多くのポケモン(=マイミク)を集めたか、レアな(=有名人の)ポケモンをいくつ持っているかを自慢する場である、という意味だ。
もちろん、この意見に反対する人もたくさんいるだろう。全てのマイミクがそんな表面だけの付き合いというわけではないだろうし、全ての人がマイミクの数を増やすことだけに奔走しているわけではないことも承知している。だから、この例えはMixiの一部分を表しているに過ぎない。

だが、Mixi、引いてはソーシャルネットワーキングというシステムの目的が、参加者にとって居心地のいいコミュニティの創設であるということは確かだ。それはSNSが、参加者がいつまでもここにいたいと思えるような場や機能を提供し、さらに親しい人にもこの心地よさを分けてあげたいと思わせることで参加者を増やしていく、という要素で成り立っているビジネスモデルである以上、疑いようのない事実だろう。

居心地のいいコミュニティとは、すなわち争いごとのない世界である。
そしてその争いの範疇には、諍いや対立、喧嘩、暴言はもちろんのこと、時には議論すらも含まれる。
現に、僕はMixi内のコミュニティなどで誰かと誰かが言い争いをしている場面をほとんど見たことがない(たまたまかもしれないが)。争いのない世界、と言えば聞こえはいいかもしれないが、それは要は人間の否定しようのない本質の一側面である醜さ、つまり妬みや嫌悪、憎しみといったドロドロとした部分を押さえつけることでしか成り立たない。

さらに言うなら、争いのない世界では成長はありえない。よく同じネット上でのコミュニティという点でMixiは2ちゃんねると比較されるが、2ちゃんねるからは常に新しいものが生まれているのに対し、Mixiから何か独自のものが生まれたという記憶はない。ここで言う「もの」とは様々で、例えばスラングであったり、AAなどの表現方法であったり、流行語であったり、何らかの法則性であったり、理論であったり、ムーブメントであったりする。
なぜこのような違いが生まれるのか、と考えてみると、Mixiではお互いの立場を尊重し、無闇に相手の価値観を否定しないという、ある意味では正しい風潮が根付いているためではないかと考えられる。つまり、ある事柄について話をしても、「私はこう思いますよ」「あ、そうなんですか。ちなみに私はこう思います」「あー、なるほど」で終わってしまうからではないだろうか。争いがない、というのは一見素晴らしいことのように思えて、実はそこから生まれる新しい要素や成長を封じ込めてしまう危険性を孕んでいるのだ。

Mixiというのはある種の宗教のようである、と僕は感じる。この宗教の教義はただ一つ、「汝の隣人を愛せよ」。全てのシステムがその教義の達成に向けて作られており、その教義に反するような行動を取るものは処罰され排除される。ここでは、友人を増やし積極的にコミュニティに参加することが絶対の善であり、それ以外の行動はシステムには組み込まれない。なぜなら、その教義に従うことのみが唯一Mixiを発展させる手段だからだ。

だが、人間はそんなに清くはできていない。いくら多くの参加者たちが自分の醜い内面の発露を抑えて“正しい”交流を行おうとも、中には自分の醜い面をむき出しにしてMixiを利用しようとする者も現れてくる。それは例えば、いわゆる「ネットホスト」と呼ばれるような人間たちだ。
2ちゃんねるのように「悪」を「在るもの」として扱っているコミュニティであれば、それに対する対策や見抜き方なども発達するが、「悪」を「無いもの」として扱うMixiでは、それに対する防御や心構えができている人はそう多くはない。結果、あっさりと裏のある人間に捕まって詐欺られてしまうような被害者が後を絶たなくなる。

各所でのMixiに対する意見を見ていると、自分がかれこれ2年半も続けているオンラインゲームのことを浮かべてしまう。
オンラインゲームも極論すれば居心地のいい居場所を提供することで成り立っている商品であり、Mixiと大きな違いはないと僕は思う。どちらも「ぬるま湯生成システム」であり、依存しすぎれば人間として終わってしまうのも共通している。
だが、オンラインゲームとMixiが決定的に違う部分がある。それが、他のブログでも書かれているように、Mixiが「理由も無く他者からの承認を受けられる安息システム」であるという点だ。

オンラインゲームでは、他人から認められる手段は複数存在する。例えば単純にレベルが高いことであったり、強力な装備品やアイテムを多く所持していることだったり、独特のプレイスタイルを貫いていることだったり、なにか独自のイベントを開催していることだったり、ギルドマスターとしてリーダーシップを発揮していることだったり、そしてもちろんMixiのように友達を多く持っていることだったりする。
そして、それらの手段を使って多くの人から認められるためには、それ相応の努力や手間が必要となってくる。つまり逆の視点から見ると、ある人間を認める場合には、その人がそうなるために支払った代償に対してある種の敬意を払うということだ。さらに言うなら、その承認は他者からはっきりと目に見える状態で表されるものではなく、不定形である。
しかしMixiにおいては、他者から認められるということは非常に簡単である。マイミク登録を送り、承認をもらう。それだけ。もちろん、承認をもらうためには他人の日記を見たり、コメントをつけたり、コミュニティで交流を深めたり、やることは色々あるだろう。しかし、結局はその人がMixi内でどれくらい認められているかは、マイミクの数という形でしか表現されないのだ。

以上を踏まえた結論を最後にまとめておく。
Mixiは居心地のいい空間を提供することで成り立っているシステムであり、その居心地のいい空間は参加者が自分の中の醜い部分を押し殺すことで成り立っている。さらに、特別な能力や技術がなくとも簡単に他者から認めてもらえるシステムを組み込むことで、全ての参加者に公平に「頑張れば認めてもらえる」状況を作り出し、それによりさらに深くMixiにのめり込む中毒者を生み出している。
このシステムはMMOのそれと非常に似ているが、Mixiの特異な点は「他者と交流すること」が絶対の正義であるという“教義”を参加者に共有させていることであり、それに反する行為を行う者に対してはその存在を許さない。つまり、孤独は認められない(マイミク登録が0の参加者は強制退会させられる)。
結果として、参加者は交流の度合い、つまりマイミクの数でのみ他者から評価を受け、それが表面上のみの薄っぺらな交友関係の拡大を加速させている。「大人のポケモン」と揶揄される所以である。
さらには、人間の醜い部分を「無い」ものとして扱っているため、それに対する防壁を持たず、結果Mixiの裏で他者を食い物にするような人間が蔓延る結果となっている。さらに言うと、争いのない世界では成長は見込めないため、生産性すなわち現実世界へのフィードバックは恐ろしいほど少ない。

つまりMixiとは、Mixi教という新興宗教が作り出した「人工の理想郷」なのだ。


[いいわけ]
Mixiをボロクソに書いてきたけど、別にMixiなんてくだらねぇ、Mixiは悪だ、なんて言うつもりはない。だって、そう思ってるならそもそも僕自身Mixiを続けてないしね。Mixiも使いようによっては非常に有用なツールであるし、人とのつながりを求める人たちにとっては悪くないシステムだと思う。何事も過ぎれば毒となる、っていうだけで。
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