×スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

×雑記:子猫殺し騒動で考えたこと

今更ながら、「作家坂東眞砂小子猫殺しエッセイ騒動」についての自分なりの感想を。
ことの詳しい流れは、ニュー速Wikiのまとめ痛いニュースの記事を参考に。Wikiのまとめはかなり長いが、関連記事や文章、批判派擁護派それぞれの意見などがかなり詳細にまとめられているので、一読すれば騒動のほぼ全てがわかるようになっている。

まず、一連の騒動を簡単に要約すると、以下のようになる。

タヒチに住む作家が、自分の飼っている親猫が子どもを産むたびに、生まれたてのその子猫を崖の上から投げ捨てて殺していることを新聞の連載上で告白

ブログや2chで大きく話題となり、批判の嵐

それが全国紙などに取り上げられる

作者が週刊誌上で反論

非難がやまず、動物愛護団体やフランス政府が動き出す

作者が毎日新聞紙上でさらに反論 ←いまここ

流れとしてはいつものような「ブログ炎上」と似たプロセスと言えるだろうが、今回の騒動は“プロの作家”が“全国紙上”で告白したというところから、かなり大きな事態にまで発展してしまっている。
また、問題となっている部分が「きんもー☆」のような単純なことではなく、生命倫理に関わる深いものだったのも騒動の拡大に拍車をかけたようだ。

■坂東エッセイの矛盾

僕が考えるこのエッセイの問題点は、筆者が子猫を殺しまくっていることではない。
子猫を殺すことについての是非はあとで論じるとして、では、何が一体問題なのか?というと、それは、筆者の異常な価値観だ。

・1*n>x*n (x=1*k*l k=猫の平均出産仔数, l=猫の累積出産回数)という価値観

痛いニュースの記事中でも散々指摘されているが、母猫の避妊手術をしたくないがために生まれてきた子猫を殺す、というのは、どう考えても「生」に対する価値観が矛盾している。
筆者は他の文中で「避妊手術」を「本質的な生を奪う」ことと断じているが、子猫を殺すことは「本質的」どころか「生そのもの」を奪う行為だ。1匹の猫の本質的な生を奪うことをためらって、その代わりに多くの猫の生そのものを奪うことを選択する、というのはどう考えてもおかしい。

本当は、「生」云々というのは単なる建前で、本音では「避妊手術」というものに対して筆者が何かしら大きな抵抗感を抱いているだけではないのか。あるいは、筆者にとって母猫の存在は大切だが、子猫の存在はそれほど大事ではないので、殺すことによる良心の呵責が少ないから、そちらを選択しただけではないか。
そしてそれをごまかすためにペットブームがどうの、命の重さがどうの、という逃げ道を作っただけじゃないのか、と思えてしまう。

つまりは、簡単に言うとこういうことだ。
「子猫を殺すことを肯定するなら親猫の避妊手術も肯定しろ、
 親猫の避妊手術を否定するなら子猫を殺すことも否定しろ。」
これができないということは、不妊治療というものに対して筆者が何らかの特異な感情を抱いているか、もしくは母猫と子猫の命を等価に見ていないかのどちらかだ。
そして、そんな人間に生命がどうのという普遍的な問題を論じる資格はない。

繰り返しになるが、筆者の論理に従うと、猫を殺すことよりも避妊手術を受けさせることのほうが耐え難い行為である、と考えているように思えてならない。
生命の本質などと大層なことを説きながら、これでは論理が破綻していると言われても仕方がない。

・ペットに愛情を注ぐ人は人間に愛情を注げないという論理

子猫殺しに対する非難への反論として、週刊現代に掲載された記事に、こういう記述がある。

『その娘にとって犬猫は人形、人の代理なのだ。
動かない人形よりは命があるし、子犬子猫の間は噛みつかれる心配もない。
格好の人の代用となる。
普通に成長すれば、この子も同世代の友達と遊ぶようになり、人形や犬猫よりも、
人との交流がもっと楽しいことを発見していくだろう。
しかし、どこかの段階で人との交流に障害が生まれると、その愛情の注ぎ先はペットに留まったり、
ネット上でのバーチャルな相手に向かったりする。
昨今の日本人のペットに対する溺愛ぶりに、私は同種の病理を感じる。』
『人を愛したい、だけど難しい。
なにしろ人は言葉を話す、反論する、裏切る、棄てる。
でも、誰かを愛したい、愛されたい、だから犬猫に愛を注ぐ。
そんな人たちが結婚し、家庭を持つとどうなるか。
夫や妻を、ほんとうに愛せるだろうか。
さらには、生まれてきた子どもを、ものいわぬ犬猫としてではなく、一個の人間として愛せるだろうか。』


上記のように、筆者は「上手く人間を愛せない人」がもの言わぬペットに過剰に愛情を注ぐようになり、結果それが「人間世界の愛情の砂漠化」と「ペット世界の愛情の過剰化」を招いている、と断じている。
そして、砂漠化した不毛の心でも、心の中まではそうなりたくはない、という気持ちが「不妊手術」に対する拒否感を生んでいるのだ、と書いている。

『ネット上でのバーチャルな相手』とか色々と突っ込みどころはあるがそれは置いておいて、犬猫に愛を注ぐ人が全て「愛の不妊」であるという論理は、どうにも納得しかねる。ペット世界に愛が溢れると人間世界に愛が不足すると言われても、はいそうですかと理解することはできない。
昨今のペットブームは、単に日本が高度経済成長を終え、豊かな暮らしを多くの国民が享受できるようになった結果、ペットを飼う余裕を持つ世帯が増え、それがブームに結びついているのだと普通は思うのではないか。それがまさか、人間関係を上手く結べない人たちが増えて、その人たちがペットに逃げているのだなどとは考えもしないだろう。

うちの両親を例に出すと、僕の両親は今から9年ほど前、ちょうどペットブームが始まったあたりの頃に柴犬を飼い始めた。そしてそれ以来、メス犬ながら避妊手術もせず、一度の出産を経験させ、毎日散歩に行き、エサを与え、旅行にも連れて行き、十分な愛情を注いでいる。
が、別に人間に対して愛情を注がなくなったというわけではないし、教師という仕事柄人間と相対する機会は一般の人より遥かに多く、仕事仲間や遊び仲間もたくさんいる。

こういう例を身近に知っているだけに、「ペットへの愛情」と「人間への愛情」がトレードオフにあるという筆者の考えはあまりにも理解するのが難しい。ましてや、8年間も日本を離れタヒチで暮らしている筆者が、なぜ昨今の日本の社会情勢についてそれほど詳しく分析できるのか。

■猫殺し批判派が考えないこと

前段の冒頭の繰り返しになるが、このエッセイの問題点は別に「猫を日常的に殺していること」などではない。
猫を日常的に殺すことが問題なのならば、保健所の職員はガス室で日々大量の野良犬・野良猫を殺しているのだから、批判されなければならないことになる。

・殺すこと=悪という価値観

僕たちは「他の生命を奪うこと=悪」であると子どもの頃から教わって育ってきたが、なぜ生命は尊重されなければならないのか、ということに関して思いを巡らすことはあまりない。
そして、自分の知らない場所で、目に見えないところで多くの命が日々奪われていっていることに、それが社会的に肯定されていることに気づかずに、或いは目を伏せて過ごしている。
「なぜ蚊やゴキブリを殺すことはよくて、猫や犬を殺すことはダメなのか?」という問に、「蚊やゴキブリは人間にとって害になるが、犬猫は益になるから」という以外の答えを返せる人はそれほど多くはいないだろうし、その犬猫ですら野良という「人間にとっての害」になった瞬間にあっさりと殺されていく現状を、大抵の人はそれほど深くは考えていないだろう。

僕自身は猫を殺したいと思わないし、また殺したことも当然ないし、これからも殺すことはないだろう。でもそれは別に、猫の生命を尊重しているからじゃなく、殺す必要性がないから殺さないというだけだ。もしかしたら、生きていく上で耐え難いほど猫の存在が邪魔になったら(そんなことはありえないだろうが)、そして猫を殺すことが自分の社会的地位を脅かすことがないのであれば、殺すこともあるかもしれない(ただし、猫には「かわいさ」という最強の防具が備わっているので、その防御を打ち破って殺すことは並大抵の努力ではなし得ないだろうが)。

その考えは突き詰めれば、「人間以外の生物」がもつ「命の価値」などは0に等しいもので、あるのは「人間にとって益か害か」という尺度だけだ、ということなのだろう。
「命を大切にしよう」という得体の知れないスローガンでさえ、「(人間にとって都合のいい生物の)命を大切にしよう」という風に置き換えれば納得できる。そして、人間にとって人間以外の生物の命に価値なんかないということに、みんなうすうす感づきながらもあえて無視しているように思える。

子猫を殺すことを悪だとする「子猫殺し批判派」は、「殺してもいい命」と「殺してはいけない命」があることについてどう考えているのだろうか。あるいは、全ての命は尊重されるべきで、殺してもいい生物など存在しないと思っているのだろうか。
ただ闇雲に「猫は殺しちゃダメだろ」と批判している人は、今一度「なぜ猫は殺してはダメなのか」ということについて考えてみて欲しい。

■筆者本人の問題

最後に、人格攻撃みたいであまり好きではないが、筆者自身の問題についても触れておく。これは、筆者の書いたものを全て読んだ上で書いたわけではなく、あくまでもまとめWikiに載っているものを読んだ上での感想なので、実際のそれとは多少ズレているかもしれない。

・自分ばかりの世界

問題となった猫殺しのエッセイ、そしてそれへの批判に対する反論文、さらには過去に書いた自伝の一部分を読んでいて思ったことだが、坂東眞砂子という人の書く文章には、本人も『わたしは自分のために書いてきた。人に読んでもらうもの、という視点はなかった。』と認めている通り、「自分」しか出てこない。

『子猫を崖の下に投げ棄てるたびに頭の中が真っ白になり、恐怖と動転に襲われる』のも自分だし、『不妊手術のことを考えただけで、自己を不妊に、不毛の人生に落とし込む底なしの暗い陥穽を前にする気分になる』のも自分だ。そこに少なくとも「猫の気持ちを慮ろう」とか「猫が嫌がるから止めておこう」という意識は微塵も認められない。
子猫殺しも、母猫への避妊手術も、エッセイに対する反論も、それに対する反駁さえ、全てが筆者本人の中で自己完結してしまっている。

前述の「ペットに愛情を注ぐ人は人間関係が上手く結べない」という論理もそうだ。
恐らくこの人自身は、自分が人間関係を上手く結ぶことができないのをペットに逃げているという意識があるのだろう。それはいい。しかし、なぜか「自分がそうなんだから、自分以外のペット好きの人も同様に人間関係が上手く結べていないに違いない」と思い至り、結果「人間世界の愛の砂漠化」という意味のわからない結論に達する。そして最終的に「愛の不妊」という言葉を作り、「だから不妊治療はさせたくないのだ」と自己正当化している。
自分がそうだから、他の人もそうだ、という思考回路には、自分以外の考え方が出てこない。

別に、自分だけの世界に生きることは悪ではない。
筆者自身がそれを自覚し、タヒチという人間社会から大きく離れた場所に自分の居場所を求め、誰にも迷惑をかけずに一人で生きていくことは、むしろ褒められるべきことだ。
そしてその世界の中で自分の価値観を正当化し、親猫の不妊治療をせずに子猫を殺し続けることも、別に悪いことではない。

しかし、筆者が不幸だったのは、その独りよがりな考えを新聞という公共のスペースにぶちまけ、あまつさえ「猫を殺す」という社会通念上好ましくないとされている行為を、自分本位に基づく意味不明な論理や8年以上も離れている日本社会の「病理」を持ち出してまで正当化しようとしてしまったことだ。
それは、どちらの考えが正しいとか正しくないとかいうことではなく、どちらの主張が力を持っているかという単純な力比べでしかない。

■まとめ

長々と書いてしまったので、まとめくらいは簡潔に。

553 名前:ぞぬ[] 投稿日:2006/08/20(日) 06:14:06 ID:c3Cpy6K80 ?BRZ(1000)
ぶっちゃけ

「どうだ、私はお前たちがフタをして見えないようにしてごまかし続けてる原罪を
 真っ向から受け止めて、 しかし人間だから苦悩しながら日々を生きてるんだぞ。
 口だけ立派なこと言ってるやつは現実を見ろ!」

って言いたいだけのマイノリティだもの

(痛いニュースより)



スポンサーサイト

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。